2023/02/23 21:12


この文章は
「短歌」にまつわる
「素朴な疑問」を想定し、
それに答えるという形で書きました。

——目次——
・なぜ短歌の賞は成り立つのか?
・どんな人が短歌をやっているの?
・なぜ短歌は成り立つのか?
・短歌の読み方を説明する側の課題とは?
——————

見出しごとにそれぞれ独立した話となっています。
気になる見出しからご自由にお読みください。

また、この文章の背景をお話しすると、実はこれを書くと同時期に「短歌のすすめ 〜短歌に興味があるすべての人へおくる〜(図解付き)」(※以下「短歌のすすめ本編」と書く)という文章を「SIN.YAMAGUCHIBUNGEI」(https://bungei.buyshop.jp/)というウェブサイトに書いています。その補足として書かれたものが本文になります。
そのため、本文の話の流れは、まず「短歌のすすめ本編」の内容を要約し、そこから生まれる「素朴な疑問」を考えて話を始める、という形を基本としています。ご了承の上でお読みください。



なぜ短歌の賞は成り立つのか?

「達人」の領域について


私は「短歌のすすめ本編」の中で、短歌には一般的に「自分が好きな短歌が良い短歌だ」という考え方があると書きました。そして同時に短歌の「達人」の数だけ「良い短歌」の考えがあるとも書きました。


そうすると、一つの疑問が浮かびます。
なぜ短歌の「賞」は成り立つのでしょうか?


短歌の世界には新人賞などの賞が多く存在しており、その選考委員は短歌の有名人たち、すなわち「達人」たちが担うことが一般的です。たとえば、もしも五人の「達人」が百首の応募の中から投票によって一首の受賞を決めることになったとしたら、意見が別れてしまい、話がつかないような気がします。

「どうやって賞が決まるのか?」というような疑問は、短歌に興味がある人なら誰しも一度は思ったことがあるでしょう。


この疑問を考えるために参考になる文章があります。
谷崎潤一郎著『陰翳礼讃・文章読本』新潮文庫刊に掲載されている昭和九年発表の「文章読本」です。この中に「感覚を研くこと」という見出しで、文章の鑑賞についての考えが述べられています。谷崎潤一郎は、もしも文章を鑑賞する際に感覚を以ってするならば結局名文も悪文も個人の主観になるのではないのか、という疑いを抱く人に対して、(当時)大蔵省の友人から聞いたお酒の品評会の話を例に説明します。

その品評会では、日本の各地で醸造されるお酒を集め、味わいの優劣に従って等級をつけており、その採点方法は、専門の鑑定家たちが大勢集まって一つ一つ風味を試してみた上で投票するのだそうです。何十種、何百種とありますから、ずいぶん意見が別れそうなものですが、実際にはそうとはならず、最も品質の良い一等酒を選び出す時には、多くはぴったり一致するのだそうです。どの鑑定家もその一種のお酒に最高点をつけるのです。

その例え話の後に、谷崎はこのように述べます。
引用してみましょう。


——決してしろうと同士のように、まちまちにはならないそうであります。この事実は何を意味するかと云うのに、感覚の研かれていない人々の間でこそ「うまい」「まずい」は一致しないようでありますが、洗練された感覚を持つ人々の間では、そう感じ方が違うものではない、即ち感覚と云うものは、一定の錬磨を経た後には、各人が同一の対象に対して同様に感じるように作られている、と云うことであります。そうしてまた、それ故にこそ感覚を研くことが必要になって来るのであります——※太字は原文ママ


感覚を洗練させてきた「達人」たちは
同一の領域に達する。


そう考えてみますと、短歌の「賞」が成り立つ理由に説明がつきます。もしも百首から一首に最高点をつけることになれば、複数の「達人」が同じ一首を選ぶということがしばしば起きるのでありましょう。

もちろん、文章はお酒よりも単純な内容ではありませんから、お酒の「達人」たちよりも、意見が別れやすいかもしれません。
また、ここで補足しておきますと、この「文章読本」は、短歌や俳句のような韻文の文章ではなく、小説などの散文の文章について書かれていますので、必ずしも全てが短歌に当てはまる話ではありません。

とはいえ、違いはあれど、短歌もまた文章の形の一つです。
短歌の「達人」の領域について大きなヒントになると思います。



どんな人が短歌をやっているの?

短歌は「上流社会」
俳句は「下等社会」

私は「短歌のすすめ本編」の中の「短歌の読み方を調べてもよくわからなかった人へ」という見出しで、「十代や二十代の若者には基本的にお金がない。お金がかからず且つ飽きない且つ疲れないような楽しみはとても有難いはずだ」というようなことを書きました。

このような文化的趣味とお金の問題は
誰もがぶつかる壁であります。
そして、短歌も例外ではありません。


福岡県福岡市を中心に十年以上活動している社会人文芸サークルの代表が、短歌のイメージについてある意見をくれました。私が「動画や漫画を見慣れている人のための短歌の読み方の解説」を書こうと思っていることを伝えた時の返事です。


——良い案だと思います。
短歌を敬遠する人は、短歌に対し「インテリ・金持ち・暇人・年寄り」という印象を持ってる事が多いので、もっとポップだと広まれば、書き手のみならず読み手が増える契機になると思います——


彼女には私の短歌のグッズ化など文芸活動の後押しをしてもらっています。三児の母でありながら、年刊二冊の文芸同人誌の編集、文芸情報誌の執筆、イベント開催のサポートなどの活動をしており、最近ではSNSを中心に短歌を詠んでいる北町南風さんの歌集の発行に関わっていました。ゆうやさんは文芸同人の場に居ることで知り得た声を、私に教えてくれたのでありましょう。
この短歌のイメージは、じつは昔から言われてきた「短歌をやる人の特徴」をよく言い当てているものでした。


「どんな人が短歌をやっているのか?」


このような疑問を考えるときに参考になる文章があります。
正岡子規著『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』岩波文庫刊にある「和歌と俳句」という見出しの文章です。正岡子規と言えば、短歌の世界では『歌よみに与ふる書』が最も有名かと思います。この本は明治期の短歌革新運動を理論的に支えた重要な歌論書であり、日本最古の歌集と言われる『万葉集』が再評価されるきっかけにもなりました。小説などの散文の世界では、写生文という文章の考え方を呼びかけており、この考えは小説家であり友人の夏目漱石に大きな影響を与えました。文章の世界に多くの影響を与えた正岡子規ですが、彼が二十六歳の時に書き始めた評論が『獺祭書屋俳話』になります。これは俳句のことを論じた文章になります。ここに、俳句を作る人と和歌(短歌)を詠む人の違いが述べられています。


——前者は下等社会に行はれ、後者は上流社会に行はる——


前者とは俳句、後者とは和歌のことです。また、彼は人々の有様について、将棋・三味線・俳句は下等社会で行われ、碁・箏(琴のような和楽器の一種)・和歌(短歌)は上流社会で行われることが多い、これらの学芸はちょうど三対三の対をなす関係であるというようなことを述べています。当時の人の暮らしが目に浮かぶようですね。
子規の言葉を借りると、どうやら短歌には昔から「上流社会」というイメージがあり、今もそのイメージが残っているようです。


繰り返して申し上げますが
今も、そのイメージが残っているのです。


そのことを教えてくれる面白い文章があります。
金子兜太・佐佐木幸綱著『語る 俳句 短歌』藤原書店刊にある「Ⅰ 俳句 短歌の魅力」という大見出しの中にある「一一〇年続く歌の家に生まれた佐佐木幸綱」という小見出しの文章です。この本は著者二人の対談の記録です。金子兜太先生は当時九十歳。田舎の開業医の家に生まれ、小学生から中学生のころに俳句に興味を持ち、戦争を経験したのちに元の職場である日銀に復職(医者を継ぐことはありませんでした)、その後も俳句を続けて一九八三年に現代俳句協会会長になるなど俳句の世界を支えてきた人です。一方で佐佐木幸綱先生は江戸時代から続く短歌の家柄です。金子兜太先生は、この対談の意義について自らの生い立ちも踏まえてこのように述べています。


——ごく普通の開業医の息子ですし、俳句との出会いも普通ですが、戦争とかそういうことがあって俳句の中にえらいのめり込んでいった。そういうかたちで現在まできています。これは典型的な普通の俳人の成立事情というものを示していると思うのです。それがまたいかにも俳句の世界にふさわしい。
また、幸綱さんの場合は、家柄とかそういうものを背負って一人の男が出てくるということで、いかにも歌の世界にふさわしい。これは好対照ではないかと思うのです——


俳句を作る人と短歌を詠む人の違いには
まず「家柄」の違いがある。


そう考えてみますと、先述した「短歌を敬遠する人は、短歌に対し『インテリ・金持ち・暇人・年寄り』という印象を持ってる事が多い」という意見が出る原因に説明がつきます。安定した「家柄」に生まれたことで、充実した教育を受け、お金もあり、時間もある。そして、歳をとっても短歌を続けるだけの余裕が残っている。そういう人が少なくないということであるのでしょう。

私は庶民の家の生まれなので、なかなか「家柄」の影響というものを考えたことがないのでありますが、人によっては、短歌を敬遠する一原因になるのかもしれませんね。



なぜ短歌は成り立つのか?

一見すると不便に思える
「三十一文字しかない文章」

私は「短歌のすすめ本編」において、短歌は「話の一部のみを伝えて話の全部は伝えない」と書きました。また、「短歌や俳句の文章を『短い』というだけで見下すような人もいる」とも書きました。

今、短歌を普段読まない人の気持ちになって考えてみますと、確かに「短い」ことを不思議だと思う気持ちは、分からなくもありません。

文章の目的を「自分の気持ちや自分の考えを伝えること」だと考えた場合「三十一文字しかない文章」とは、どうしても不便に思えるからです。しかし、現実では、短歌は千年以上の昔、正確には一三〇〇年ほどの昔からある文章の形です。不便であるだけならば、時代の必要によって淘汰され、今まで生き残っているはずがありません。


「短歌を成り立たせるものとは何か?」


この疑問を考える上で参考になる文章があります。
佐佐木幸綱著『佐佐木幸綱歌集 現代短歌文庫第100回配本』砂子屋書房刊にある「人間の声——私説現代短歌原論」です。この文章に「<他者への信頼>について」という見出しで、短歌が成り立つ基盤についての考察があります。


彼は、<他者への信頼>を基盤として短歌は成り立っていると言うのです。


私なりにわかりやすく説明しますと、<他者への信頼>とは、他者に期待する心のことです。先述したとおり、短歌は三十一文字しかないため、話の一部のみを伝えて話の全部は伝えられません。自分の意志や気持ち、イメージのほとんどが伝えられません。しかし、その核心部分を三十一文字の文章にしっかり収めることができれば、他者が読んだときに、話の一部から話の全部をわかってくれる(あるいは自分で解釈してくれる)はずだ! と期待する。そのように期待する心があるから、私たちは短歌を詠むことができるのです。
これが、<他者への信頼>を基盤として短歌は成り立っているという意味です。

このことから、佐佐木幸綱先生は短歌の特色をこのように述べています。


——短歌の場合は、この期待のみによって成り立っていると言っても過言ではない点にその特色がある。<他者への信頼>なくしては、そもそも短歌それ自体が生まれなかっただろう、と私は思う。
万葉集の三大部立が、雑歌・相聞・挽歌の三部立であるのは、たまたまそうあるのではないのだ。社会への信頼が雑歌を、愛する者への信頼が相聞歌を、死者の魂への信頼が挽歌を、それぞれにその基盤において支えているのである。もし、これら<他者への信頼>がなかったとしたならば、短歌は存在し得なかったであろうことは確実である——


そう考えてみますと、私たちが一般的に思う文章と、短歌の文章では話の伝え方が異なることがわかります。一般的な文章は、相手に話をわからせるように伝えますが、短歌の文章は、相手に話をわかってもらえるように伝えます。

なぜそんな違いがあるのかと言うと、短歌を詠む人は、相手が話をわかってくれるはずだ、と(たとえ無自覚であったとしても)期待しているからです。つまり、短歌の文章とは、読者が作者に歩み寄るような形になることで、初めて話が伝えられるようになるのです。

このような文章の違いがあるとした場合、文章を伝える人と伝えられる人の関係は斯くの如く言い表すことができるでしょう。
一般的な文章では、主人と客人のように、明確に区別された関係になりますが、短歌の文章ではむしろ客人から主人のほうへ、積極的に歩み寄るような関係になります。その歩み寄り方は、お互いの心の核と核を融合させるような深い関係を求めるものなのです。

佐佐木幸綱先生は、このような深い関係を持つことを、読者が作者と<共犯関係>を結ぶ、と呼んでいます。

(このように説明しても、この関係は短歌をやっていなければ、なかなかわかりにくいことだと思います。そのため、他の関係にあてはめて無理やり喩えてみるならば、それは奥深く難解なゲームをつくるが解釈を客に委ねるゲームクリエイターとゲームの世界を凝視してひたすら制作者の意図を考察する熱心なファンのような関係だと思えばいいかもしれません。具体的に一つ挙げると「INSIDE」というゲームとそれに関連するレビューコメント等の考察が、制作者とファンの関係を見る好例と言えるでしょう。とりあえずはそんな関係だと思えば大体良いでしょう)


このような短歌の文章には
人間の根本的な部分まで深く考え、人間の本音や人間たる源を詠むことが必要になるでしょう。なぜなら「人間本来の感覚」「人間の原点のような何か」を詠むことができれば、同じ人間である相手(客人)に話の一部から話の全部をわかってもらえる(と期待できる)からです。佐佐木幸綱先生はそのような(個人の声ではない)人間の声を詠んでいくべきだと言います。そうすることによって、一三〇〇年つづく伝統詩型の中にある先人の仕事を引き受けながらも「一寸だけ」そこから脱することができ、かつ、短歌の文化を袋小路の入り口に立たせない安全な方向へ進ませることができる、と考えているのです。


もちろん、これは彼の短歌への考え方であり、人によっては異なる考え方があるはずですから、一概にこうだとは申しません。また、上記の文章は佐佐木幸綱先生の文章を、私なりに噛み砕いて説明したものになりますから、先生の伝えたかった微妙な部分を、伝えきれていないかもしれません。
ちなみに上記の説明は先述した「人間の声——私説現代短歌原論」の中の「<他者への信頼>について」と「人間の声」という二見出しの内容を主にお話ししました


しかしながら
人間というものを深く考えて短歌を詠むべきだという考え方は、じつに奥深く、面白いものだと思うのです。また、この考え方を持つことで、飽きることなく短歌を詠み続けられるような気もいたします。


もしかすると、短歌が千年以上の昔から今まで生き残っている理由とは、この「三十一文字しかない文章」の形の中に、じつは、飽きることなく続けられるような世界があるからかもしれませんね。



短歌の読み方を説明する側の課題とは?

多種多様な伝え方を
工夫することが大切

私は「短歌のすすめ本編」の中で「短歌の読み方を調べてもよくわからなかった人へ」という見出しで、短歌の入門書の多くは文章を例に短歌の読み方を説明していると書きました。

しかし、電車の中にいる人、カフェにいる人など身近な人たちを見ても、本よりスマートフォンを見ている人のほうが遥かに多い。本を読んでいる人を見かけない。そんな状況なのに「文章を例に短歌の読み方を説明」して、何かが伝わるものなのでしょうか。
それが「短歌のすすめ本編」のそもそもの出発点でした。この点について、もうすこし書いてみましょう。

短歌の入門書を読んでもよくわからなかった、という問題は、読む側ではなく、書く側の課題です。書く側から見れば、読んでもらったのに役に立てなかった、ということです。

なぜそんなことが起きるのか。
詳細を書く前に、まず結論から申しますと、それは文章を普段読まない人のことを考えて短歌の読み方を説明していなかったからだ、ということになります。つまり、読書家タイプの人だけを相手に説明されており、インターネットやSNSから短歌の文章に興味を持った人は初めから相手にされていない、ということです。


ここですこし根本的な部分から、書く側の課題を見ていきましょう。


短歌の読み方でもどんな話題であってもそうなのですが、人がある話題について「理解している状態」とはどういう状態なのかと言えば、それは「説明できる状態」のことだと私は考えています。つまり「理解している=説明できる」という関係です。

なぜなら、私たちは誰かの知識を評価するとき、目の前の話し相手にわかりやすく説明できているかどうかを見て判断することがよくあるからです。
話す側は、わかりやすく説明してみせることで「この人はこの話題をよく理解している」と相手や周囲に認めてもらえるのです。

たとえば、営業マンはお客さんの前で説明をして仕事を取っています。経営者は人前で説明をして資金を集めています。仕事をするためには、相手に「この人はこの仕事を理解できている」と認めてもらう必要があります。そこで相手にわかりやすく説明してみせることで、仕事の知識を認めてもらうのです。ちなみに、YouTuberの中にはある事件やある話題をわかりやすく説明して人気を集める人がいますね。お笑い芸人の中田敦彦さん、評論家の山田五郎さんなどのYouTubeチャンネルがそうです。
私たちの多くは、わかりやすく説明してくれる人を見て、役に立つ有難い人だなと感じているのです。


この「理解している=説明できる」の関係が正しいとした場合、一つの問題が起きます。それはうまく説明できないと理解していない人だと思われてしまうことです。説明がわかりにくいと、ちょっと気になる程度の人は簡単に話題から離れていくでしょう。しかし、わかりやすい説明とは案外難しい。なぜなら説明の成功が話し相手によって左右されるからです。たとえば、短歌の読み方の説明を「短歌を普段読まない人」にする場合、その相手にも色々なタイプの人がいます。
恐縮ではありますが、ここでは私なりに大きく四タイプに分類してみました。


一 文章メインの本を読み慣れていて、動画や漫画なども見慣れている人
二 文章メインの本は読み慣れているが、動画や漫画は全く見ない人
三 文章メインの本は全く読まないが、動画や漫画は見慣れている人
四 文章メインの本を全く読まず、動画も漫画も全く見ない人
  ※文章メインの本とは、たとえば小説や随筆や評論や詩集や句集などの本


この四タイプを想定しただけでも、説明のために、それぞれに話の内容や話し方を変えなければなりません。そのため、いくら短歌の知識が豊富で、その道の権威の人であったとしても、話し相手の趣味の方向や知識の寡多によって、説明の手段を変えられなければ「(わかっているフリをした)理解していない人」に見えてしまうのです。


さらにこのことから、書く側の問題点が指摘できます。


仮にこの四タイプを日本人に当てはめてみましょう。
長年読書離れが問題視されていて出版不況と言われる昨今では、おそらく一や二のような読書家タイプの人は、少数派だと言わざるを得ないでしょう。とは言え、四の人も考えにくい。インターネットやスマートフォンの登場によって、TVだけでなくWEBサイトやアプリやSNSなどを経由して、広告やコンテンツがどんどんどんどん現れるようになりました。この状況では、動画を見慣れていない人の方が少ない気がします。
そうなると、日本人の中で最も多いタイプは、三のタイプだと考えるのが自然です。


しかし、短歌の入門書の多くは、少数派である、一や二のタイプを相手に書かれています。これでは、短歌に興味を持ってくれた人の多くから「読んでもわからない」と思われても仕方がありません。


もちろん、この問題は個人の努力では解決しにくいところがあります。
短歌の入門書を書く人とはどんな人なのかと考えてみますと、それは大学の先生か、カルチャーセンターの講師のような人だと思います。

たとえば、偏差値を基準に考えるのは卑しい気もいたしますが、偏差値の高い大学の先生は、偏差値の高い学生と対面しています。偏見になりますが申し上げますと、偏差値の高い学生は偏差値の低い学生よりも、読書や勉強を苦にせず、仮にも読書の習慣が無い人であったとしても、言語運用能力や論理的思考力などの能力が元々高いため、すぐに短歌の読み方を身につけるような気がします。そのような学生を見た先生は、読書をする若者(または少し教えれば短歌の読み方がすぐに身につく若者)が少なくないと思ってしまい、結果的に、一や二のタイプだけを意識した文章を書いてしまうのです。

カルチャーセンターの講師もこれに同じです。
カルチャーセンターには、元々短歌を読み慣れている人や読書家の人、勉強熱心な人が集まりますから、読書の話題がしやすい環境であります。然らば、講師の周囲には一や二のタイプの人が集まります。講師は自らのお客さんに近い人を相手に文章を書くはずですから、結果的に、一や二のタイプに向けた説明になるのです。

要するに、短歌の入門書を書く人の周りには、三のタイプが少なく、一や二のタイプが多い。そのため、自然と三のタイプが無視されてしまうわけです。


しかし、現在、短歌への世の注目は、一や二のタイプを超えて、増えつつあると思います。それはインターネットの登場によって、インターネット上で短歌を詠む人が多くなり、それに伴ってインターネットから短歌に興味を持つ人も多くなったからです。


短歌を広めている原動力を考えてみますと、それはその道の権威の人の働きではなく、短歌歴の浅い人の働きでもなく、その中間にいる人たちの働きが、大きいような気がします。

たとえば、オンライン歌会などインターネットに適応した活動をしたり、短歌を読む文化を広めるために映像メディアに出る回数を増やしたり、ポエトリーリーディングのような読書以外の接点を探したりするような人たちです。
彼らの活躍により、短歌への入口は、確実に広くなっていることでしょう。



最後に

「短歌の読み方を説明する人がやるべきこと」を私なりにまとめるとこうなります。


短歌の未来は、インターネットから短歌の文章に興味を持った人たちに、短歌の文化を伝えられるかどうかで決まります。それは文化というものが、人に伝われば生き残り人に伝わらなければ消えていく性質のものだからです。
その伝え方は多種多様な方が良いでしょう。
たとえば、福沢諭吉著『学問のすゝめ』の中の十二編目に「演説の法を勧むるの説」という見出しの文章があることをご存知ですか。知識や考えを活用する方法は様々な工夫を施して然るべきであり、物を書き、人と談話をし、演説をし、以って智見を広めるべきであり、それを行わないことは学問を修めた人の怠惰である、というようなことが述べてあります。

この章は割と有名な部分らしく、他の本に引用されているのを読んだことがあります。一一二万部のベストセラーを記録した竹内一郎著『人は見た目が9割』新潮新書刊にある「『語らぬ』文化」という見出しの文章です。その文章では、日本人には「語らぬ文化」があるらしく、「相手に話がわかるように伝える」という意識が少ないというような指摘がなされていました。


僭越ながら
「相手に話がわかるように伝える」という意識が少ない人は、短歌の文化を伝える人として失格であると言わざるを得ません。


多種多様な伝え方を、辛抱強く、考えていきましょう。
現実を見て対策を取れば、必ず人から人へ伝わります。
まずは伝える工夫をすることからスタートしましょう。