2023/02/23 21:16


この文章は「短歌」について書いたものです。

短歌とは千年以上の古くから日本にある文章の形の一つであり、現在でも多くの人の間で、書物が読まれたり創作が楽しまれたりしています。

もちろん、短歌というものは、たとえば書物や電子書籍として広く愛されている漫画、「Amazonプライムビデオ」「Netflix」のような定額制動画配信サービス(通称サブスク)によって便利に楽しめるようになった映画やドラマなどと比べましたら、とても親しまれているとは言えません。日本人の余暇の楽しみと言えば、短歌ではなく、漫画やサブスクで観る映画、あるいは「YouTube」の投稿動画だという人が大勢いることでしょう。
しかしながら、私は短歌が好きな人間です。

動画や漫画があふれる世の中において、奇しくも、短歌に興味をもっていただいた人には、ぜひ短歌を勧めたいと思うわけであります。願わくば、みなさまがお友達とおしゃべりなさる際に、漫画や映画、YouTubeの話題のなかに、ときどき短歌の話題がチラリとあれば、それだけで嬉しいのです。
短歌が好きな御仁、女史の方からすると、言葉足らずな部分があるかもしれませんが、Z世代の戯言として、ご容赦いただけますと幸いです。


----目次----
導入
・短歌の説明と遊び方
「短歌は大喜利みたいに遊ぶもの」
・短歌とは読めるからやがて好きになるもの
・読み方がわかる=違いがわかる
・短歌の読み方を調べても
 よくわからなかった人へ
・読み方のポイントは主に三つ
1 意外性のある視点(大喜利と短歌の比較)
・大喜利では「意外な答え」が面白い
・「良い短歌」の基準はわかりにくい
・一般的な基準は
「自分が好きな短歌が良い短歌だ」
2 最後の決め台詞(映画と短歌の比較)
似ている点
・気持ちをストレートに説明しない
・真実(解釈)は一つじゃない
・「間」を味わう
違う点
・短歌は作家にファンがつく
・映画は「総合芸術」、短歌は「言語芸術」
・映画は「学問」に近く、短歌は「道」に近い
3 現実を忘れる(漫画と短歌の比較)
・伝えられる情報量が圧倒的に少ない
・使われる言葉が特殊
・空想の話がしにくい
まとめ
 短歌の読み方を伝えるためには
最後に
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短歌の説明と遊び方
「短歌は大喜利みたいに遊ぶもの」

まずは、短歌の説明と遊び方を簡単にご紹介いたします。
短歌とは、言葉を五七五七七の音数に当てはめた計三十一文字の文章のことです。 短歌を読むときには、五七五七七の音数ごとに区切って読みます。そうすることで、自然とリズムがついて、なんだかイイ気分になれる。それが短歌です。ざっくりとした説明ですが、これくらいの覚え方で良いと思います。
そして、短歌は「大喜利」のように遊びます。


ここで「大喜利」の説明を軽くしておきましょう。

「大喜利」と言えば、たとえば日本テレビ系列の番組「笑点」が有名でしょう。
「笑点」ではお題が出て、ボケを答える、というワンツーの流れが基本です。このような「出されたお題(テーマ・写真)に答える」というエンターテイメントの一種を「大喜利」と言います。ちなみに、SNSやYouTubeで流行っている「ボケてのお題に答える」というような投稿も、大喜利の一種だと言えるでしょう。

この「大喜利」の形は、日本文化の基本だと言ってもいいくらい、あらゆる文化で見受けられます。 



短歌を詠む(短歌を書くことを「詠む(よむ)」と言います)ときにも、この大喜利の形が使われます。 

たとえば「題詠(だいえい)」という遊びがあります。 

これは短歌を詠む際のゲームの一種です。一般的な遊び方を言うと、これは三人以上で行います。出されたお題を受けて短歌を詠み、みんなでそれを見せ合います。そして、良い短歌を一人一首(短歌を数えるときは「◯首(◯しゅ)」 という単位を使います。数え方は「一首(いっしゅ)」「二首(にしゅ)」「三首(さんしゅ)」となります)選んで投票し、優勝を決める。これがよくある「題詠」の流れです。 
そのときのお題とは「秋」「夏」「青」「カエル」など単語の場合もあれば、「青いもの」など一つのテーマの場合もあります。 大喜利と同じく、そのお題に答えるような短歌を詠むのです。

またもやざっくりとした説明をしましたが
遊び方だけを知っていれば大体良いと思います。
(この題詠の文化は万葉集以来から明治時代までの間、短歌の王道としてさまざまな工夫がなされてきた歴史がある奥深い世界なので、短歌を詠み始めて八年目くらいまではお題に答えることだけに集中していればOKだと思います)


短歌とは読めるからやがて好きになるもの

さて、短歌の説明と遊び方の紹介はここまでにして、ここから本題に入りましょう。
「短歌のすすめ」と題したからには「どうやって短歌を伝えるのか?」を明確にする必要があります。
そこでまず初めに、この文章の中身をお伝えしましょう。

書く前に考えたこと:
多くの人は文章(詩・俳句など)よりも「動画」や「漫画」の方が好きかもしれない
書く時に考えたこと:
どうやって短歌の読み方を伝えるべきか? 
書いたこと:
「大喜利」や「映画」や「漫画」を例にした短歌の読み方の説明 

これが「短歌のすすめ」の中身です。 
つまり、「大喜利」や「映画」や「漫画」を例に短歌の読み方をお話ししたいと思うのです。


このように書くと、短歌が好きな人の中には「文章が好きじゃないなんて、なぜ決めつけるんだ」と思う人がいることでしょう。「短歌を読ませなければ短歌を好きにはならない」と思う人もいることでしょう。それはごもっともな意見です。名作の短歌を読むことは確かに良いことです。

しかしながら、私の狙いは別のところにあります。
短歌を好きになってほしいのではありません。短歌を読めるようになってほしいのです。

これはあらゆる文章にも言えることですが、短歌とは、好きだから読むものではなく、読めるからやがて好きになるものです。たとえば、普段漫画を読まない日本人に、セリフや文字が全てギリシャ語で書かれた漫画を読ませたとしても、漫画を好きにはならないでしょう。たとえ面白そうなものであっても、まず話がわからなければ、好きになるという段階には進みません。話がわかるから、漫画を読もうと思う。そうして徐々に好きになっていくものではないでしょうか。

短歌も同じことだと私は考えます。
もちろん、短歌の言葉には私たちが普段使う日本語が使われていますから、一見、読んで話がわからないという不安は無いように思われるでしょう。歴史的なことを軽く説明すると、昔の短歌の言葉には、上品な言葉づかい、いわゆる雅語を使うことが多く、やや読みにくかったのですが、今の短歌の言葉(簡単に言えば明治以降の短歌)には、普段使う言葉や外国語の言葉も使われるようになり、昔よりも読みやすくなりました。しかし、同じ日本語だからと言っても、実用の文章を読む時と、短歌の文章を読む時では、やはり頭の働き方が異なります。普段短歌を読まない人に短歌を読ませたとしても、不思議に感じるだけで、好きにはならないでしょう。
まずは読めるようになってもらうために、読み方を伝える必要があるのです。 


読み方がわかる=違いがわかる

では、「読み方がわかる」とは、どういうことか。

それは違いを知っているという状態のことです。たとえば、短歌と大喜利は違う、短歌と映画は違う、短歌と漫画は違う、これらは当たり前の認識だと思います。しかし、その違いとは、どの程度の差があるのか、その認識は人によってバラつきがあるのです。ある視点から考えてみると、短歌と映画には似た部分があったり、短歌と大喜利には全く違う部分があったりします。それを知っているかどうかが重要なのです。

短歌が好きな人は、当たり前のように短歌を読みますが、普段から短歌を読まない人は、短歌が好きな人のようには読むことができません。それは短歌のいろいろな点が引っかかって、読むことがしんどくなるからです。しかし、随筆や小説や詩や俳句を普段から読んでいる人なら、初めて短歌を読んだとしても割と楽に読めてしまいます。それは随筆や小説や詩や俳句の文章がどういうものなのかを経験的に知っているため、短歌の文章とそれらを比較することで、話の内容を読みとるための見当がつきやすいからです。逆に、普段から短歌(その他の文章も含めて)を読まない人は、頭の中に、短歌と比較できる材料が無いために、身近なものと短歌の文章がどれくらい違うのか、見当がつかないのです。

しかし、身近なものと短歌の文章との違いを知っていれば、大体の見当がつくようになります。見当がつけば、もっと楽に読めるようになるし、さらに楽しく読めるようにもなります。この「比較の材料」は、みなさまにとって身近なものであり、経験豊富なものがベストです。私が思うに、それは「大喜利」「映画(動画)」「漫画」の類が当てはまるでしょう。

つまり、「大喜利」「映画」「漫画」との違い(または類似)を説明すれば、短歌を読むための助けになると考えました。


短歌の読み方を調べても
よくわからなかった人へ

ここで本題からは逸れますが
「短歌を普段読まない人は今までどうやって短歌の読み方を調べてきたのか?」という疑問を、すこし考えたいと思います。

たとえば、短歌を普段読まない人が短歌に興味を持って調べてみたとします。短歌の読み方を調べるとき、本屋さんに行って「はじめての◯◯」「◯◯入門」というタイトルの本、いわゆる入門書を読むという人がいるでしょう。あるいはその手のWEBサイトを検索して読んでみる人もいるでしょう。短歌を教えてくれる本やWEBサイトはたくさんあります。

しかし、読んでみてもわからない。
それは当然だと思います。なぜなら、今の多くの人は小説や随筆などを含む文章を読んでおらず、動画を観ることや漫画を読むことに慣れているからです。(この点については「短歌のすすめ 〜素朴な疑問に答えます編〜」より「短歌の読み方を説明する側の課題とは?」に詳しく書きましたので是非ご覧ください

短歌の入門書の多くは、短歌の読み方について、短歌を例に教えています。あるいは、俳句や詩のような、短歌以外の文章を例にして教えています。
当たり前のような話ですが、少し考えてみてください。

短歌の読み方がわからない人に、短歌を例に教えても、伝わりにくいと思いませんか。また、動画や漫画を見慣れている人に、俳句や詩のような別の文章を例に教えたところで、同じく伝わりにくいと思いませんか。 それでも、短歌の入門書の多くは、文章を例に読み方を教えようとします。おそらく、これから先も似たような入門書が出ると思います。

しかし、今の時代、私たち全員とは言いませんが、かなり多くの人は、文章よりも、動画や漫画を求めているかもしれません。
みなさまも、そう思いませんか?
出版市場を見てみれば、何年も前から規模が縮小しており、本屋さんに行ってみれば、文学の棚が減った代わりに漫画の棚が三分の一ほどを占めている。周りの身近な人たちを見てみましょう。みんなスマートフォンを持っていませんか。家にいるときや外出中の空き時間には、アプリゲームをしたり「YouTube」で動画を観たり「Amazonプライムビデオ」や「Netflix」のようなサブスクを利用したりする、そんな人がかなりの数いると思っても不思議ではありません。しかも、サブスクなら、プロの作品をほぼ無限に見放題であり、毎月数作品を観たならば、単価で考えると一作品の値段は無料に近い。つまり、便利な上にお金がなくても楽しめます(これは偏見かもしれませんが申しますと、十代や二十代の若者には基本的にお金がありません。お金がかからず且つ飽きない且つ疲れないような楽しみはとても有難いはずです。それを叶えてくれるのがサブスクなのです。多くの若者がサブスクの恩恵を受けているような気がしています)。
このような状況から察するに
「文章よりも動画や漫画が好きな人が増えているのかもしれない」と考えることは、とても自然なことです。それにもかかわらず、文章を例にして短歌を教えても、伝わりにくいと思いませんか。失礼を承知で言えば、その伝え方は時勢に疎い。あるいは、きつい言い方をしますが、友達の読者に甘んじて世の人が見えていないと言わざるを得ないかもしれません。

もちろん、短歌の入門書を書く人は、短歌を好きになって欲しいという気持ちで書いています。善意の気持ちから、多くの優れた短歌やその歴史を紹介してくれています。それは有難いことであり大変役に立ちます。しかし、今の多くの人は、動画や漫画を見慣れているのです。それゆえに、酷なことを申し上げますが、短歌の読み方について短歌を例に教えても短歌を読めるようにはなりにくい。ましてや、好きになるようなことは無いと言えるでしょう。


読み方のポイントは主に三つ

そのため、この文章では 「動画や漫画を見慣れている」人向けに、短歌の読み方をお話しします。
読み方のポイントは主に三つです。

1 意外性のある視点(大喜利と短歌の比較)
2 最後の決め台詞(映画と短歌の比較)
3 現実を忘れる(漫画と短歌の比較)

大体これらのポイントがわかると楽しめます。
また、それぞれのポイントで「大喜利」「映画」「漫画」との違いについて、いくつかの説明を書きました。短歌を読む際のヒントにしてもらえると嬉しいです。
それでは、一つずつお話ししていきましょう。 


1 「意外性のある視点」

これは大喜利と同じですね。お題に対して観客(動画なら視聴者)が思い付かないような意外な答えを言えば、笑いが起きたり面白がられたりします。 
短歌も同じです。「題詠」のようなお題に対して、読む人が思い付かないような短歌を詠むほうが良いのです。 

もちろん、大喜利と短歌には違いがあります。 
決定的な違いは、主に二つです。 

一つは五七五七七の音数で詠まなければならないこと。
もう一つは大喜利がエンターテイメントであるのに対し、短歌はそうではないため、「良い短歌」の基準がわかりにくいことです。 

たとえば、大喜利では、大勢の人を笑わせたり、多くの人から面白がられたりすれば、それが「良い答え」になります。エンターテイメントでは多くの人にウケれば良いのです。つまり、ウケを狙うことが重要です。評価基準がわかりやすいですね。 

しかし、短歌は大喜利よりも、評価基準がわかりにくいです。なぜわかりにくいのか。それは短歌の歴史が千年以上もあり、多くの基準が生まれたからです。 

短歌の世界には、短歌を極めた達人たちが、過去から現在までたくさん存在しています。彼らは一人一人強い個性を持っています。その中には、SNSのインフルエンサーのような影響力を持つ人も多いです。そんな達人たちの中の一人が、(大昔の話で驚くかもしれませんが)明治時代に会員制のクラブを作りました。短歌を詠みたい人が集まるクラブです。これは時代とともにその数を増やしていき、インターネット社会の現代になると、大御所から若手に至るまで、多くの達人が会員制のクラブを作りました。この会員制クラブのことを、短歌の世界では、古い日本語で「結社(けっしゃ)」と呼びます(歴史的な経緯を話しますと、江戸時代の頃は短歌を詠みたい人が師匠の元に弟子入りするというような「入門」の形が一般的だったそうですが、明治時代に入って郵便制度が成立したために郵便による短歌の投稿ができるようになりました。その頃から現在の「結社」の形ができたそうです。令和の時代は短歌の投稿を郵便ではなくインターネットに移した新たな結社の形ができつつあると思います)。ちなみに、私は「結社」の一つである「心の花」に入っています。ここの責任者は、佐佐木幸綱(ささきゆきつな)先生という人です。先祖代々短歌を詠む家に生まれたサラブレットであり、現在は退任していますが、早稲田大学で教鞭をとっていました。ここに私が入った理由は、彼と家柄が近しいわけでもなく、大学のご縁があるわけでもなければ、キャリアに役立てたいわけでもありません。ただただ彼の短歌のファンだからです。彼は短歌の達人と呼べる人の一人です。
これらの達人や「結社」の数だけ評価基準がある。そのため、「良い短歌」とは何か、わかりにくいのです。 

とは言え、わかりにくいと言っても、「良い短歌」の一般的な基準らしきものはあります。

強いて言うなら「自分が好きな短歌が良い短歌だ」という考え方です。この考え方を、短歌が好きな人は全員持っている、と言ってもよいでしょう。なぜそこまで言い切れるのかと言えば、これを基準とすれば、誰からも攻撃されずに、安心して短歌を楽しめるからです。 

しかし、この考え方には怖い部分もあります。
自分が良い短歌と思っていても、友達にはどうでもいい短歌と思われていた、なんてことが当たり前にあるからです。共感してもらえないと、仲間はずしにされた気がしたり、友達との心の距離が離れた気がしたりと、不安になる人もいるはずです。逆に、友達の好きな短歌に共感してあげないと、自分の好きな短歌も共感してもらえないような気がして、息苦しい思いをする人もいるでしょう。でも大丈夫。短歌とはそういうものなんです。だから、友達に好きな短歌を否定されても、それはあなたの気持ちがけなされている訳ではありません。逆に、友達の好きな短歌に、無理やり共感しようとしなくてもいいんです。

その短歌が好きだと思う気持ちを
お互いに認め合うことが大切です。
まわりを気にせずにマイペースに
短歌を楽しめると良いですね。


【次は2 最後の決め台詞(映画と短歌の比較)
 後半の文章はこちら→ 短歌のすすめ|2/3頁

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