2023/02/23 21:16


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2 「最後の決め台詞」 


映画のラストシーンって大事ですよね。

忘れられない映画には印象的なラストシーンが付き物です。映画の良し悪しはラストシーンで決まる、と言っても過言ではないかもしれません。私が覚えている限りで申しますと、昔アメリカンシネマに少しだけハマっていたことがありまして、たとえば、映画の『ダーティハリー』では、ハリーがバッチを投げ捨てるシーンを、今でも鮮やかに思い出します。『フレンチ・コネクション』も好きです。悪を追い詰めたと思いきや、衝撃的な終わり方をして驚きました。他にも、イタリア映画の『自転車泥棒』では途方に暮れるお父さんの表情、フランス映画の『禁じられた遊び』では人混みに消えていく少女の姿。どちらも切ない気持ちになりました。『カサブランカ』『ローマの休日』など名作と呼ばれる映画には印象的なラストシーンが多いです。アニメ映画では、押井守監督作品ではありませんが、彼が原作・脚本として関わった『人狼  JIN-ROH』をお勧めします。日本の実写映画だと、シリーズ第一作目の『仁義なき戦い』は、腹を括った男の気概を感じる、いいラストシーンだと思います(古い映画ばかりで申し訳ない)。

じつは短歌にも似ているところがあります。短歌は五七五七七の音数で作られているのですが、最後の「七」文字のことを「結句(けっく)」と呼びます。この「結句」が印象的かどうかで、短歌の出来は大きく決まります。 

映画と短歌、次元の違う二つだと思うかもしれません。確かに違いはありますが、じつは似ている点もあります。ここでは映画と短歌の似ている点を三つ、違う点を三つ、それぞれお話ししましょう。


ところで、話に入る前に、一つ注意してほしいことがあります。

私がここで言う「映画」とは「娯楽としての映画」のことではありません。強いて言えば「精神修行としての映画」のことです。なぜこんなことを言うのかといえば、映画の観賞方法が、インターネットの登場前後で大きく変化しているからです。映画館に行かなくても、「Amazonプライムビデオ」や「Netflix」なら月額料金だけでいくらでも映画が観られます。まとまったお金を払って観るのと、そうではない場合では、一つの映画への執念に違いが出ます。また、今は上映スクリーンではなく、スマートフォンやパソコンでも観ることができます。家事をしながらスマートフォンで映画やドラマを観るという「ながら観」をする人もいるでしょう。最近では一・五倍速で視聴する「倍速視聴」や興味のないシーンをスキップする「飛ばし観」をする人も少なくありません。そして、「Amazonプライムビデオ」や「Netflix」には、「倍速視聴」「飛ばし観」用の機能がちゃんとついています。つまり、人によって映画の観賞方法は多種多様になっている。そうなると、私が思う「映画」の特徴と、みなさまが思う「映画」の特徴には、大きな違いが出てしまいます。そこで、ここで言う「映画」の条件をこう定めます。

「上映時間二時間ほどの映画を、千〜二千円ほどのお金を払って、スマートフォンの電源を切り、映画館の上映スクリーンで黙って観る」ような「映画」です。このような観賞方法は、おそらく今のインターネット社会に慣れた人たちにとっては「精神修行」に近いかもしれません。「精神修行としての映画」と言ったのは、そのためです。

この書き方は時勢に反している気がしますが、私が「倍速視聴」などをやったことがないために、仕方がないのです。申し訳ありませんが、このままお付き合いください。


さて、それでは映画と短歌の似ている点を一つずつお話ししましょう。



①気持ちをストレートに説明しない
映画の技とは、セリフではなく目で見てわからせることにあります。たとえば、口では「嫌い」と言っていても心では「好き」だと思っている、そのような裏にあるものをどうやって見せるのかを工夫します。なぜか。観客は映画を考えながら観ているからです。言葉の裏にあるものや表情の変化のような、微妙な意味を読みとることに努めます。話をストレートに伝えず、見せる工夫を凝らすことで、観客を映画に引きこむのです。

とはいえ、最近では映画を観る観客の変化が著しいようです。二〇二二年四月に発行された稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』光文社新書刊では、第二章に「セリフで全部説明してほしい人たち」という題で、今の人たちが暗喩や皮肉や寓意を理解できない実態とその背景を書いています。要するに、わかりやすい映画を求めている。そのため、セリフで状況やその人物の気持ちを、一から十まで説明するような映画が、今の流行だそうです。

では、短歌はどうか。じつは短歌にも話をストレートに伝えずに、見せる工夫があります。「悲しい」「好きだ」という言葉を使わずに、その気持ちを伝える。たとえば、雨が降っている場面の話を詠むことで、「悲しい」気持ちを伝えるというようなことです。人は短歌を読んで、微妙な意味を読みとります。これは、察するということに近いです。「短歌には察する文化がある」と言ってもいいかもしれません。
なぜ短歌はそうなのか? それを考える際に参考になる本があります。竹内一郎『人は見た目が9割』新潮新書刊では、第五話「日本人は無口なおしゃべり」という題で、日本のノンバーバル・コミュニケーション(言葉を使わずに伝える表現のこと)の特徴について、このように書かれています。


——その根本原理は、中世の天才能楽師・世阿弥が全てをいい当てている。「秘すれば花」なのである。Aは本当のことを言葉では語らない。Bは「Aが伝えたいであろうことを察する」。その両者の気持ちが通じ合ったときに、「深く関われた」と満足する。——


芸能という視点で見れば、日本文化には、本当のこと(気持ち)を語らずに伝えることで、相手に察してもらうのが良い、という考え方があるようです。短歌にも似たような考え方があると思います。

②真実(解釈)は一つじゃない
映画には観客によって違った解釈ができるものがあります。たとえば、喜劇王の異名を持つチャップリンが監督兼主演をした『街の灯』のラストシーン。果たしてあの女性は笑っていたのか悲しんでいたのか、どちらとも取れる絶妙な表情を見せて終わります。映画を観ても、どういう感情だったのか説明してくれるものはなく、観客一人一人に解釈を委ねます。そういう映画は観た後も心に問いかけるものが残るし、観ていて良かったと思わせる力があります。

短歌にも、人によって複数の解釈が生まれるものがあります。先ほど「短歌には察する文化がある」と述べました。「察する」ということは真実(相手の気持ち)を推し量ることですから、解釈(短歌を詠む人の気持ち)は一つであるかのように思われますが、じつは短歌を詠む人は、あえて説明しないことで、複数の解釈ができるように詠んでいる場合があるのです。つまり、短歌には察する文化とともに「自由に解釈する文化」もあり、それぞれの解釈があって良いのです。また、短歌の世界には、仲間たちがあつまって短歌の良し悪しを議論したり、短歌の話題をお喋りしたりする「歌会(うたかい)」という会があります。この「歌会」の文化は、古くから続く文化であり、一つの短歌について、それぞれの解釈を言い合う場にもなっています。短歌が一つの解釈だけでなく、複数の解釈ができるものでもあるという証左だと言えるでしょう。

③「間」を味わう
映画は最初から最後まで二時間の尺があるならば、二時間をかけて観られる想定でシナリオが書かれています。監督はその二時間の尺の中に、演出や音響やシナリオや構図など、あらゆる要素を考えて、観客を引き込ませたり驚かせたりするような、緩急をつけていきます。つまり、「間」を工夫するのです。たとえば、絵本の読み聞かせやプレゼンテーションでは、話の「間」をうまく取ることで、観客に話を印象づけることができます。それと同じく映画は「間」の効果を意識して作られるのです。

これは当たり前の話のように聞こえますが、最近では「倍速視聴」や「飛ばし観」をする人が少なくないため、この当たり前が通じません。たとえば、時代劇なら迫力のある殺陣のシーン、ラブコメでは好きな女優や俳優が出るシーンまで、スキップしたり倍速にしたりするそうです。先ほど取り上げました稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』光文社新書刊では、映画は昔から大体二時間の尺で作られているが、今の人にとっては、二時間の尺は長すぎるのではないか、昔のやり方にとらわれずに尺を工夫するべきかもしれない、というような考察が書かれていました。

とはいえ、やはり「間」を味わうことが映画の醍醐味の一つである、と映画にハマっていた時期がある私は思っているのであります。

さて、じつは短歌にも「間」を味わう文化があります。みなさまは「歌集(かしゅう)」というものを買ったことがありますか? これは本のジャンルの一つであり、短歌がたくさん書かれている本を一般的にこう呼びます。大体の傾向を言えば、「歌集」は基本的に単行本として発行され、一冊一五〇〇〜二五〇〇円ほどの価格です。ページ数は大体一八〇〜二三〇頁です。驚くべきことは、その内容です。短歌が大体二〇〇〜四〇〇首ほど収録されているのですが、その中には挿絵やイラストのようなものはなく、基本的に文字だけです。あとがきを除く本文の総文字数は仮に二〇〇首なら六二〇〇字。大学生のレポート一本分というところでしょうか。そのため、仮に総頁数二〇〇頁に短歌四〇〇首の本ならば、一頁に二首の割合で読むことになります。

「値段の割にスカスカじゃないか!」と思う人がいるかもしれません。

確かに、私も最初は面食らいました。これで商売が成り立つのかと考えたこともありました。しかし、「歌集」は短歌を一首ずつ読んで、考えることを想定しています。「間」を取ることで、一首一首に注目して、時間をかけて読んでもらえます。時間をかけることで、自分なりの解釈が生まれたり、自分なりのイメージが湧き上がったりする、そのような読書のために、短歌はたっぷりと余白をとって、頁に置かれているのです。心ない人の中には、短歌や俳句の文章を「短い」というだけで見下すような人も居りますが、文章の質や表現の豊かさにおいて、決して小説などの長い文章に負けてはいません。そうでなければ千年以上の昔から短歌が存在しているわけが無いのです。一頁に二首の割合で読むということも、短歌を味わうためには必要なのです。また、違う角度からも考えてみてください。たとえば、インターネット上でブログを読んだりYouTubeで動画を観たりすれば、決まって広告がチラチラと表示されて鬱陶しいものです。一見手抜きのように見える余白には、じつはそのような鬱陶しいものを排除する役割もあるのです。これは集中して読むための「間」であると私は思っています。


ここまで短歌と映画の似ている点をお話ししました。
ここからは違う点について、主に三つお話ししましょう。


①短歌は作家にファンがつく
映画を観る人はどうやって観たい映画を決めているのかと言えば、それは人によってまちまちであります。監督で決める人もいれば、好きな俳優や女優やアイドルが出ているか、アニメなら好きな声優がいるかどうかで選ぶ人もいます。さらに、ゴジラやターミネーターなどのシリーズ作品はとりあえず観るという人もいれば、スタジオジブリや京都アニメーションなどの制作会社で決める人もいるそうです。そのため、映画のファンだと一言で言っても、好きなものの対象は人によって違うのです。

一方、短歌のファンは、どの作家が好きかによって決まります。

これは当たり前の話のようですが、重要な違いであります。後に述べます、短歌が「言語芸術」であり「道」に近い形をつくっているのに対し、映画が「総合芸術」であり「学問」に近い形をつくっているということについての、迂遠ではありますが、証左になり得るからです。


②映画は「総合芸術」、短歌は「言語芸術」
映画は、総合芸術だと言われます。俳優や女優の芝居、それを指導する演出、ダンス、歌唱、カメラの構図、音響、照明の当て方、舞台セット、衣装の選択、脚本、シナリオ、CG技術、編集技術などなど、あらゆる技術や美術の分野で工夫がなされています。関わる人も多く、動くお金も多く、監督はいくつも指示を出さなければならない、そのため映画作りは複雑です。

一方、短歌は、言葉をつかう言語芸術です。とはいえ、短歌が好きな人の中には、言葉の意味を、視覚や聴覚など五感から思い出されるものと結びつけることで、よりいっそう解釈やイメージを楽しむことができる、と考える人もいます。そういう人は、短歌に総合芸術のような一面を感じているかもしれません。

しかし、客観的に見れば、やはり短歌は言語芸術だと言えます。

そのため、映画を観るのと比べて、短歌を読むためには「語彙力」と「論理力」が必要になります。「語彙力」とは言葉の意味を知っているかどうかのことです。これは辞書を傍に置いて、知らない言葉を調べることで補うことができます。「論理力」とは話を順序立てて理解できるかどうかのことです。たとえば縦書きの文章なら、上から下に、右から左に、順序立てて話が進んでいることが一般的です。その話の進み方は、時系列であったり記憶を思い出す順番だったりと、その都度その都度異なります。たとえば、歴史的な建物の説明文を読む場合、ゲートからエントランス、ゲストルームという順に話が移っていけば客人の動きに沿って文章を書いているとわかる。それとは違い、主人の居室から執務室、ゲストルーム、バルコニーという順に話が移っていけば主人の動きに沿って文章を書いているとわかる。話の進み方がわかると、文章を正しく読むことができ、逆に、話の進み方がわからないと、文章を正しく読むことが難しくなります。短歌も文章の基本に漏れず、読むための「論理力」が必要なのです。

③映画は「学問」に近く、短歌は「道」に近い
学問とは、知識が体系的にまとめられたものです。歴史学、経済学、地理学、医学、法学、心理学、遺伝子学、教育学、数学、哲学、政治学、物理学など複数あります。

「体系的にまとめられたもの」とはどういう意味かと言えば、たとえば、歴史学は世界史と日本史に分類できます。日本史は古代や中世や近世や近代に分けることができ、近代は明治や大正や昭和に分けられます。昭和は料理の歴史や政治の歴史や服装の歴史などもっと細かく分けられます。そして、それぞれの分野には、その分野の知識をたくさん持っている専門の人がいます。それを私たちは一般的に「学者」と呼びます。このように、学問とは、知識が分類されて順序よくまとめられているものなのです。

じつは、映画にも似たような特徴があります。映画の知識は、カメラ、照明、脚本、演出、CG、衣装、音響などに分類でき、さらにカメラはモノクロやカラー、カメラワーク、フィルター、構図など細かく分けられます。そして、それぞれの分野には、カメラマンや演出家や脚本家などその分野の知識をたくさん持っている専門の人がいます。その点も学問に似ています。なぜ、映画の知識が学問の知識と似たしくみを持っているのかはわかりませんが、おそらく映画が、科学の進化とともに発展してきたものであるために、科学の学問的な特徴から影響を受けているのかもしれません。

さて、映画と比べて短歌は、このような知識のしくみを持っていません。知識が体系的にまとめられていないのです。もちろん、短歌には「新カナ」「旧カナ」「文語」「口語」などの分野ごとに分類できそうな知識も一部あります。しかし、「新カナ」分野の知識をたくさん持っている専門の人などがいるわけではありません。なぜなら、短歌を詠む人にとって望ましいことは、一つの分野の知識をたくさん持つことではなく、すべての分野の知識をたくさん持っていることです。そのため、映画のカメラマンや演出家や脚本家のような、専門分野を持つ人が登場して、影響力を持つようなことはまずありません。専門分野を持つ専門の人が存在しない(必要とされていない)、この点が映画作りとの決定的な違いです。若手からベテランまで、みんな短歌という同じ分野の人になるのです。とはいえ、実際には時間や労力の限界がありますから、すべての分野の知識をたくさん持つような無理はできません。そもそも知識の多くは、分野ごとに分類されているわけではないため、どんな知識が役に立ち、どんな知識が役に立たないのか、まったく見当がつきません。そのため、短歌を詠む人の多くは、知識を身につけるために、短歌を詠んで、人に見せて、意見をもらう、そんな反復を繰り返すことで、役に立つ話(意見)に見当をつけて、徐々に徐々に知識を増やしていきます。つまり、反復によって短歌を身につけるというやり方です。これは剣道、柔道、茶道、華道のような「道」とついた日本文化によくある「修行」の考え方に似ています。

映画は「学問」、短歌は「道」。映画も短歌も「いい作品をつくる」という目的は同じなのですが、「知識の習得」には大きな違いがあるのです。


さて、映画と短歌の話はここで終わります。
ようやくこれから最後のお話です。
この三つ目のポイントが、読み方の肝だと言えるでしょう。 


3 「現実を忘れる」 


「現実を忘れる」とはどういうことか。
たとえば、好きな漫画を思い浮かべてください。
それを読んでいるところを想像しましょう。

読んでいる間は、魅力的なキャラクターたちやストーリーに夢中になりますよね。夢中になると、現実を忘れることができます。たとえば、周囲との人間関係、学校では口うるさい担任教師、会社では嫌味な上司、家では顔も見たくない両親、職場や教室では嫌いだけど関わらなければならない人たち。人間関係だけではありません。自分自身のこともあります。お金がないこと、異性にモテないこと、太っていること、恋人よりきれいな女性(さわやかな男性)をたくさん見かけること、恋人には私より好きな人がいるかもしれないこと、障害があること、病気があること、自分に自信が持てないこと、いじめられていること。もっと大きなことにも目を向けてみましょう。日本は年金の負担が増える未来しかないこと、日本はずーっと経済成長していないこと、日本は大学卒・正社員・男性だけを大事にしていること、日本は非大学卒・非正規社員・女性・外国人を大事にしていないこと、日本は二〇六五年には高齢化率が三十八・四%に達するためそれまでは少数の若者層が投票しても民主主義の政治への影響力はまず無いということ…などなど。この他にも、その人には、その人にしかわからない現実というものがあるでしょう。みな何かしらの現実を抱えているのです。さらに、現実の生活とは、基本的にトレードオフで成り立ちます。つまり、あちらが良くなればこちらが悪くなる。異性にモテるようになっても今度は恋人を疑いはじめる。両親と和解しても今度は介護によりお金も時間も失う。そんな未来が待っている。楽になるようで楽にならないのが現実であります。しかし、私たちは現実の生活のなかでも、幸せを感じたり、楽しいと感じたりすることがあります。すばらしい漫画を読んだとき、感動的な映画を観たとき、センスのいい大喜利の答えに思わず笑ったとき。なぜ幸せを感じるのか。それは「現実を忘れる」ほど、夢中になるからです。夢中になれるものがあれば現実を忘れられる。だから、漫画や映画や大喜利は、この世にあるのかもしれません。 

そして、短歌も同じであります。「現実を忘れる」ような、夢中になれる短歌のほうが良いのです。 


それでは、漫画と短歌を比べてみましょう。
ここでは、主に三つの違いを通して短歌の特徴をお話ししましょう。 


①伝えられる情報量が圧倒的に少ない
漫画に比べて短歌は伝えられる情報量が圧倒的に少ないです。

漫画は「絵と文字の組み合わせ」によって、たくさんの情報を伝えることができます。そのため、話がわかりやすい。

しかし、短歌は「文字だけ」で情報を伝えます。しかも、文字数に限りがある。そのため、話の一部のみを伝えて、話の全部は伝えない、ということが多いです。そうなると、人は言葉や文脈から、話の全部を想像し、短歌を解釈するしかありません。

つまり、漫画を読む時よりも、話の全体を想像する「想像力」、自分で解釈を考える「解釈力」が必要になります。


②使われる言葉が特殊
漫画は基本的に「若者の文化」「子どもの文化」です。

成人漫画も増えていますが、やはりメインは少年漫画。そのため、若者や子どもにも、わかりやすい日本語が使われます。

しかし、短歌は、少ない文字数で多くを伝える必要性と、千年以上の歴史があるために、若者が知らないような、古い日本語もたくさん使われています。

しかも、古い日本語も使うというだけではありません。今の日本語の文章には使われていないような、古い日本語の「法則」を知っていないと読めないことがあるのです。たとえば、古文の助動詞の接続や係り結びの法則、枕詞、旧カナ遣いなどがそうです。

ここまで読んでいただいた人の中には、古い日本語をいつまでも使うのは変だと思う人がいるかもしれません。しかし、短歌には歴史の重みというものがあります。古い日本語の美しさや使い方を受け継いでいくこともまた、短歌の役割の一つだと思うのです。さらに、古い日本語は短歌の表現に多くの可能性を与えてくれるだけでなく、それを読めることで、先人が残した素晴らしい短歌を味わうこともできます。これからも、短歌を詠む人たちと短歌を読む人たちは、古い日本語から多くの恵みをいただくことでしょう。

つまり、短歌には漫画を読む時よりも、意味を読みとるための「言葉の知識」が必要になります。

③空想の話がしにくい
私たちが漫画を読むとき「これは現実の話だろう。だから作者の実体験が元になっているはずだ」と思って読むことは、まずありません。それは、漫画が基本的に空想の話で作られているからです。漫画に描かれている人物や生物や敵や魔法や地域などは、だいたい存在していません。もちろん、現実の話をモチーフにしたり、モデルにしたりする漫画はたくさんありますが、大事な設定は、空想の話で作られているケースが多いです。巷に流通するほとんどの漫画は、基本的に空想の話だと言ってよいでしょう。では、短歌はどうか。

短歌を読む人たちは「これは現実の話だろう。だから作者の実体験が元になっているはずだ」と思って読むことが多いです。むしろ、空想の話だと思って読む人の方が少ない。なぜなら、短歌が基本的に現実の話で作られているからです。漫画と逆なのです。もちろん、新しい短歌をめざして、空想の話を短歌に詠もうとする人もいます。しかし、それはかなり少数派の人たちです。仮にも空想の話を短歌に詠むとしたら、その空想の話が、あたかも現実の話のように読める場合に限ります。なぜそんな工夫をするのかと言えば、これは、私の実体験ですが、短歌の文章が空想の話だと知ると、多くの短歌仲間から興醒めされてしまったことがありました。興醒めされることを、作家は特に嫌がります。だから、空想の話がしにくい。どうも短歌の世界には、そういう傾向があるようです。

そのため、漫画を読む時よりも、「現実の話」だと思って読んだほうがいいかもしれません。
(ただし、形而上の意味の言葉や物語・神話の中の言葉を使うことで現実離れした短歌を詠む人もいます。形而上の意味の言葉とは「宇宙」「銀河」「神」のように五感では感じられないもののことです。物語・神話の中の言葉とは「彦星」「織姫」「龍」「妖精」のようにお話の中に出てくるものを意味します。このような言葉を使うことで現実の話でありながらも現実離れした短歌を詠む人もいます)

以上、短歌の三つの特徴についてお話ししました。この三つを知るだけでも、漫画と短歌はかなり違うことがわかります。 


【次 まとめ
 後半の文章はこちら→ 短歌のすすめ|3/3頁
【短歌をもっと知りたい人は